森山未來×唐津絵理 対談 キッドピボット『リヴァイザー』来日公演を語る

2023.05.12 INTERVIEW

唐津絵理(以下唐津):今日はありがとうございます。キッドピボットの『リヴァイザー』がもうすぐ日本にやってきます。この作品は2019年にカナダで初演を迎えて、コロナでの中止や延期を経て、ようやくアジア、今回の日本で最終公演となるんですよ。キッドピボット主宰のクリスタル・パイトさんは、現代的なダンスの中では比較的珍しく物語を作品に取り入れることの多い、ダンスと演劇を両立させた振付家として知られています。私はそこに未來さんとの共通点を感じて、未來さんに是非お話を聞いてみたくなりました。

森山未來(以下森山):ダンスって、例えば「バレエを観ます、やります」という場合、目の前で何が起こるかは、なんとなく想像できるじゃないですか。でも、音楽なども近いですけれども、そういうジャンルやスタイルだったり、日常の所作すら剥ぎ取ったときに、身体は抽象的なコミュニケーションツールになると思っています。だからこその余白、パッション、言葉を超えたエネルギーが存在する。あるいは演劇的な視点からも、言葉というものを信じている人間の力によって放たれる、そういった身体というものがあるような気がしています。

唐津:演劇的な身体とダンサーを自在に行き来している未來さんならではの視点ですね。

森山:それは舞台でも映像でもどこでも起こりうると思っていますが、いわゆるダンサーだから身体が面白いとか、身体が利くということではなくて。例えば、打ちひしがれている人間がそこに倒れていて、一筋の光に導かれるようにしてなんとか重力に抗って立ちあがろうとする・・・といったような、物語の中に役柄があり、物語の波みたいなものもあって、そこでどうにか動かなければならない存在というのが、時にえにも言えぬ身体表現をが生みだすこともある。

それは日常のささいなことでもよいし、役者自身がどう解釈しているかなどにもよりますが、そういうときに立ち上がってくる身体の美しさみたいなものがあります。”あの芝居”がすごいと言われるときには、身体性が絶対に含まれていると思っています。そういう身体の見え方、立ち上げ方も自分の中であるんじゃないかなと思う部分もあるからこそ、言葉などから立ち上がってくる身体、あるいは僕らの想像力を結構信用しています。

唐津:『リヴァイザー』の映像をご覧いただいて何か気になるところはありましたか?

森山:言葉と身体をどのように連動させているのかが気になりました。例えば、Aがつまづく、Bがそこに手を差し伸べる、といったオーダーがある場合、いわゆる役者さんだと日常的な行動からアプローチしてアクションにまで到達するんだけど、それが今作の場合、移行していく最中のダンサーたちのクオリティにおいて、抽象性をある程度許容することで物語以上の膨らみをもたせる、といったような技法を使っている印象があります。

ダンサーとして出演しているエラ・ホチルドと以前創作した時に、作品について話し合う中で出てきたワードを僕がキャッチして、「リヴァイザー」の中でも使われている手法で振り付けをしたことがありました。悲しいとか、寄り添うように、慈悲の心でとか。でも例えば、慈悲の心って感情的にも肉体的にも、出て来方は、人それぞれではないですか?その選択を、クリスタルが演出的にどうアプローチしているかは分からないのですが、ダンサーとの対話なのか、こうしてほしいと伝えるのか、あるいは、ダンサーに表出のさせ方を委ねるのか、その対話があるのだろうなということを想像しながら観ていました。

唐津:日本公演では日本語字幕があるので、ストーリーも分かりやすいと思います。
キッドピボットの『リヴァイザー』はストーリー自体はゴーゴリの『検察官』の骨格はあるんだけど、今回は、オリジナルの戯曲の登場人物のイメージから8名のキャラクターを創造し、それぞれの人物像をデフォルメして、それをダンサーにあてはめていったそうです。

昨年『FORMULA』で未來さんがご一緒したエラさんや令那さんなどのとても個性的で素晴らしい8名のダンサーが選ばれました。ダンサーたちについてはどのようにご覧になりましたか?

森山:エラはもともと、イスラエルの2大巨塔ともいえるようなカンパニー、インバル・ピント&アブシャロム・ポラックダンスカンパニーとバットシェバ舞踊団にいました。そこでカンパニーワークをずっとやってきたことは分かっているけど、ダンサーとしてちゃんと作品に参加しているのを見たのはこの作品が初めてです。僕が出会ったのは、フリーになって、振付家として、自分のスタイルで作品を創っていた時期です。だから、あ、ちゃんとこういうことするのか!(笑)、というのは思いました。

唐津:ダンサーによって創作の方法はかなり違ったそうです。エラさんは、彼女の即興や、彼女自身がクリエイションしたシーンが多かったみたい。

森山:なるほど。たしかに彼女自身はマルチディシプリナリーというか、自分の作品でも必ず言葉や音楽を用いて、自分でつくる、歌うなどをします。もちろん一番重きを置いているのは身体かもしれないのですが、ある種フラットに言語や音楽を使っているので、クリスタルが創造するような身体と言語のバランスが、全く同じでないにせよ、彼女の中にもきっとある。そういう信頼関係のようなものがあるのでしょうね。

令那さんは、本当にゴム毬のような身体で、“理解度”という意味ではないのですが、理解してようがしてまいが、1を言われたら10やっちゃう人というか(笑)。それが例えミスアンダースタンディングになっていたとしても、振り切れているから面白いことになる、不思議な振れ幅になる。意味性の超越の仕方を、爆発的な身体だけで飛び越えちゃうというような。クリスタルはそういうところに惹かれているのではないかと想像します。

唐津:クリスタルは、とてもダンサーを尊重して、一緒にコラボレーションで創られることが多いとおっしゃっていました。
未來さんは振付家とダンサーとの関係性について、どうありたいと考えていますか?

森山:『リヴァイザー』を観ていても、それぞれのダンサーの特性に合わせた動きになっていると感じました。クリスタルの演出と、クリスタルとダンサーとの対話によって身体が拡張されているようです。クリスタルとダンサーとの対話の痕跡が身体に表れているなと感じました。

それは、日本の今のダンスの世界、あるいは演劇の世界においても、なかなか見られない関係性だと思います。ダンサーあるいは役者のほうが誰かに決めてもらうのを待つというスタンスが強い傾向があって。これは、これまでの習慣だったり、日本の文化が関わってくるところもあると思いますが、やはり振付家とダンサーとは基本的にはフラットであって、共犯関係ですよね。フラットな対話によって表現が生まれてほしいと思います。僕が誰かと作品を創るときには、そういうスタンスを意識しています。

唐津:フラットというスタンス、それは振付家とダンサーとの関係だけでなくて、音楽や照明など異ジャンルのアーティストとの創作のあり方でも感じますね。

森山:音、言葉、身体のバランスがひとりのアーティストの世界観として立ち上がっているというのが、僕は良いと思います。あるようでいて、なかなかないですよね。どうしても音と言葉と身体とを、分けて考えてしまいがちな振付家や演出家が多いような気がしていて。

どこかでそれぞれの作家が「僕はその世界はわからない」という感じで、作曲家に、振付家に、演出家に、各々が各々にどうしても委ねてしまいがち。知識として知っているから言えるということではなくて、見たい景色、音の風景、身体のフォルム、あるいは流れというものは、具体的ではなくても、クリアに見えている状況というのを、誰しもが持っているはずだと思っています。彼女は世界で活躍しているアーティストなのでもちろんなのですが、自分の感性にしっかりと寄り添って創作をしている、クリアであるということを、作品を観ていても思いますし、参考になりますって感じです。(笑)

唐津:一方で、クリスタルは、現代社会にある問題に真正面から取り組んでいて、表現者としてのメッセージ性が強い作品が多いと思いますが、今回は政治的な腐敗、権威に対する批判、風刺などを茶番劇という形式で描いています。200年近く前の作品ですが、この度のウクライナとロシアの問題はじめ、時代的にとても共鳴していますよね。

森山:日本はアートや表現が政治、宗教などにうまくコミットできない、させてくれないという風潮がありますが、今の時制に立っている僕らが何かしらを表現するときに、ただ表現のクオリティだけに終始することは、どの深度かにもよるけど、それでもやはり少し滑稽で、残念なことだなと思います。

唐津:この前、令那さんにインタビューした時に、キッドピボットでは、今問題にすべきトピックに対して、専門家を呼んで勉強会やアーティストたちみんなで話をする会をもうけているとおっしゃっていました。

森山:そうなんですね。例えば、『リヴァイザー』では、検察官だと勘違いされる役柄の人がいるじゃないですか。その人は、原作の戯曲の中では「ある青年」ですが、今回の作品については、女性がひげを貼りつけてる。そこでジェンダーレスにしてしまった。ある特定のジェンダーの人に、ある特定の役割を担わせないという意図があったのかなと思いました。

「リヴァイザー」のあらすじを調べた限りだと、あの青年は、検察官のフリをして入ってきて、そこでもてなされるだけもてなされて、消えていった。風刺する存在としては良いけれども、その青年自身はちゃらんぽらんだから、ある種、悪人的でもあるというか。その責任を男女どちらにも取らせないという、LGBTQをフラットにしたところは意図としてあったと思いますし、そういうことに自覚的なのは、良いなと思いました。
※森山さんに観ていただいた記録映像は初演のものです。ツアー公演でのキャストは一部変更となります。

あとは、やはり笑いがあることは大事ですね。もちろんシリアスな時間、集中して観る時間も嫌いではないですが、例えば、”舞踏”ってあるじゃないですか。僕、観るとだいたい笑ってしまうんですね。吉祥寺のスタジオ壺中天で、あれは麿赤兒さんのお弟子さんの作品だったと思うのですが、「最後の晩餐」のパロディみたいな舞台をやってたんですよ。お客さんからしたら、舞踏というものに対面しなければならない!みたいな姿勢で観ているんですが、どう考えてみても、その辺のごみみたいな食べ物を使って、投げ合ったりしていて。滑稽芸というか、それを滑稽と感じる心も大事かなって思っています。それは馬鹿にしているわけではなくて、笑うことで作品として昇華できる瞬間があると信じているし、シンプルに面白かったら笑えば良い。

『リヴァイザー』に関しては、むしろ笑いを積極的に取り込んでいるというか、それによって作品の底にあるコアなテーマと、後半に向けて変容していくシリアスな側面とのギャップを生むことができる。そういった緩急をうまく作っているように感じますね。

唐津:この作品を最初にゴーゴリさんが書いたときには、当時の政治に対しての告発として書いたらしいのですが、劇としては茶番劇のスタイルで上演されて、それがあまりにも面白くて、人気になってしまった。ゴーゴリさんとしては想定外のことで落胆したそうです。でも、このテーマにもなっている「勘違い」なんですが、ものごとの変化について、そこがクリスタルたちが今回この物語を取り上げるきっかけになったそうです。また、作品のタイトルにもなっているゴーゴリのロシア語の戯曲の『Revisor/リヴァイザー』って、英語では公文書の校正者という意味があって、そこから何らかの変化を加えるということを作品のテーマとしたとインタビューでおっしゃっていました。

森山:”変更することができる”という考え方を、うまくダンス作品としても援用しているなと感じました。作品の中盤で、前半のおさらいのようなシーンがありますが、また違った飛躍の仕方があるように見えました。前半では身体はほぼジェスチャーの延長で、そのジェスチャーの意味から出ない範囲でとどまっているのだけれど、後半そこから抽象的な身体が滲み出て、意味から外れだすときに、演劇的なジェスチャーとしての身体の意味を記憶している観客にとっては、抽象的であっても、そこにある身体が現す何かしらの感情というものを人は想像しながらフォローしていくと思うのです。

そういう効果をクリスタルは狙っていると思います。戯曲が設定した、あるいはクリスタルが設定した感情やト書きと、元の話を知っているからこそ観客が各々自分のストーリーから抽出される個人の物語、考え、想いみたいなものが、ダンサーの身体を媒介にして混ざり合っていくというか。『検察官』という作品を使い、校正されうる、あるいは変化しうる、というレイヤーを立てたからこそ、成立している世界があるなと。

唐津:クリスタルとジョナソンは「テキストが身体をどう動かしていくのか」を問うことを2人で探求していて、物語と抽象的なイメージとの間にある緊張関係が、表現のための原動力になっていると話されてました。未來さんも何かのインタビューで「言葉が身体に働きかけることによって身体がどのように動いていくのか」に関心があるとおっしゃっていましたね。私が共通点と感じたことを的確に言語化してくださって、素敵なコメントをありがとうございました。
最後にこの記事を読んでいる皆さまに、公演に向けたメッセージをいただけますか。

森山:ダンサー、振付家、演出家、役者など、あるいはそれらを志している人、そしてそれらを愛している人たちは、とりあえず観ておいた方が良いと思います。クリスタルの存在を知らない人も多いかもしれないですが、できる限り多くの人に観てもらいたいです。



2023年5月9日(オンラインにて)

聞き手:唐津絵理
話し手:森山未來

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